1754201 ランダム
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藤の屋文具店

藤の屋文具店

裕美疾走る




           【裕美疾走る】


「どういうことよぉ!」

 怒鳴ると、裕美はたたきつけるように電話を切った。クーラーの
音が、しんとした部屋に響く。テーブルの上には飲みかけのアイス
コーヒー。汗をかいたグラスが差し込む光にきらきら揺れる。ドア
を蹴っとばしたくらいでは、怒りは収まらない。

 タンクトップにショートパンツのままスニーカーを履くと、裕美
は家を出た。そろそろ初夏とは言えぬ強い日差しが、街中を白く塗
りつぶしている。
 スモークの入ったゴッグルをかけて自転車に跨る。住宅街の午後
は人通りもなく、小さくなった街路樹の影が流れる。道は緩い登り
坂、シマノのディレイラーがかしゃんと音を立て、ペダルがすっと
軽くなる。
 裕美はランドナーのハンドルを持ち代えて姿勢を低くした。尻を
少し上げてペダルに体重を掛け、リズムをとりながら軽く左右に振
る。メタリックレッドの車体が、きらきらと輝きながら勢いよく走
り抜ける。バス亭には小さな女の子を連れた母親がひとり、レース
の日傘が足元に模様を描く。
 下りだ。ギアをトップに入れ腰を引く。ガードレールが迫る。浮
かせた腰を左に落とし、軽く傾けてコーナーをクリア。右に左に振
り回して走るうちに、胸の中のもやもやはどこかに消えていた。

 ふと気がつくと、英二の家の近くに来ていた。決断のつかぬまま
スピードを落とし、通り過ぎたところで左折。犬のいる家の角をま
た左折して、元の道へ出る。スピードをぎりぎりまて落としてスタ
ンディング、まだまだ捨てたもんじゃないわね。頬がほころぶ。

 深呼吸をひとつして、インターフォンを押した。

「永岡です、・・・・いい?」

 駄目だとは言わない男なので声の調子で判断する。本当によさそ
うなので、腰をおちつけることに決めた裕美は、ちょっと神妙な顔
をしてドアを開けた。廊下の突き当たりを左、ノックして開ける。
 床一面に散らばった部品の真ん中で、英二が顔を上げた。

「天気いいね」
「うん」
「きょうはひとり?」
「うん・・・・・ひとりなの・・」
「また喧嘩したのか」
「・・・・・・・・」
「天気いいし、ちょっと走るか?」
「うん!」


               ●


 銀色に塗られた古くさいスポーツ車が、新緑の中を走る。セキネ
が当時の少年の夢をかなえるためにリリースした、格安の本格スポ
ーツ。バイクに憧れる子供たちの、デコレーションケーキのような
おもちゃとは一線を画した「グリフォ10」は、十余年の時を経て
なお、鮎のように泳ぐ。流れるように走る英二の後を追いながら、
裕美のペースも徐々に上がった。
 ブレーキ、リーン、コーナーを抜けながら踏み込むとフレームは
しなり、起きあがろうとする車体をハンドルで抑える。道は海へ向
かうカーブを過ぎて、木漏れ日のトンネルを走る。

 真新しい赤いランドナーを従え、銀色の古いスポーツ車は淡々と
走る。背中に彼女を感じながら、彼は道を切り開くように進んでい
く。ふたつの影はぴたりと寄り添い、呼吸を合わせて走り続ける。

 潮の匂いの風が、裕美の心の中を吹き抜けていった。


               ●


「わたしって、わがままな女なんかなぁ・・」

 海岸のベンチに、缶コーヒーをとんと置く。

「・・・ああ」

 優しく微笑んで、英二は応える。

 何か言いたいことがあったはずなのに、もう、何も言えなくて、
裕美は立ち上がった。

 波打ち際の小石を拾い、沖へ投げる。

 海は、何もなかったように小石を飲み込む。

 砂浜に英二が腰をおろす。

 裕美は、その隣にすわると、英二の肩に頭を預けた。

 目を閉じると赤一色の世界。波の音だけが大きく聞こえる。

 寄せては返し、

 寄せては返し、

 寄せては、

 返す。

                         (了)




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